大鏡「東風吹かば」~菅原道真の左遷~前後(原文)

[三六-2]光孝天皇の擁立 陣定

 小松(こまつ)の帝(みかど)の御母、この大臣(おとど)の御母、はらからにおはします。さて、児(ちご)より小松の帝をば親しく見たてまつらせたまうけるに、

 ことにふれ 迹(きやうじやく)におはします。「あはれ君かな」と見たてまつらせた まひけるが、

良房のおとどの大饗(だいきやう)にや、昔は親王たち、かならず大饗につかせたまふことにて、わたらせたまへるに、 (きじ)の足はかならず大饗に盛るものにてはべるを、いかがしけむ、尊者(そんじや)の御前(おまへ)にとり落してけり。陪膳(はいぜん)の、皇子(みこ)の御前(おまへ)のをとりて、まどひて尊者(そんじや)の御前に据(す)うるを、いかが思(おぼ)し召(め)しけむ、御前の大殿油(おほとなぶら)を、やをらかい消(け)たせたまふ。このおとどは、その折は下藹(げらふ)にて、座の末(すゑ)にて見たてまつらせたまふに、「いみじうもせさせたまふかな」と、いよいよ見めでたてまつらせたまひて、陽成院(やうぜいゐん)おりさせたまふべき陣定(ぢんのさだめ)にさぶらはせたまふ。融(とほる)のおとど、左大臣にてやむごとなくて、位(くらゐ)につかせたまはむ御心ふかくて、「いかがは。近き皇胤(くわういん)をたづねば、融らもはべるは」と言ひ出でたまへるを、このおとどこそ、「皇胤なれど、姓(しやう)た はりて、ただ人(びと)にて仕へて、位につきたる例(ためし)やある」と申し出でたまへれ。さもあることなれど、このおとどの定(さだ)めによりて、小松(こまつ)の帝(みかど)は位につかせたまへるなり。帝の御末もはるかに伝はり、おとどの末もともに伝はりつつ後見(うしろみ)申したまふ。さるべく契りおかせたまへる御仲にやとぞおぼえはべる。

[三六-3]深草山に葬る 堀河院と閑院 三平

 大臣(おとど)うせたまひて、深草(ふかくさ)の山(やま)にをさめたてまつる夜(よ)、勝延僧都(しやうえんそうづ)のよみたまふ、

 うつせみはからを見つつも慰めつ深草の山煙(けぶり)だに立て

また、上野峯雄(かんつけのみねを)と言ひし人のよみたる、

 深草の野辺(のべ)の桜し心あらば今年ばかりは墨染(すみぞめ)に咲けなどは、古今(こきん)にはべることどもぞかしな。御家は堀河院(ほりかはゐん)・閑院(かんゐん)とに住ませたまひしを、堀河院をば、さるべきことの折、はればれしき料(れう)にせさせたまふ。閑院をば、御物忌(ものいみ)や、また、うとき人などはまゐらぬ所にて、さるべくむつましく思(おぼ)す人ばかり御供(とも)にさぶらはせて、わたらせたまふ折もおはしましける。堀河院(ほりかはゐん)は地形(ぢぎやう)のいといみじきなり。大饗(だいきやう)の折、殿(との)ばらの御車の立ちやうなどよ。尊者(そんじや)の御車をば東に立て、牛は御橋(みはし)の平葱柱(ひらきはしら)につなぎ、こと上達部(かんだちめ)の車をば、河よりは西に立てたるがめでたきをは。「尊者の御車の別(べち)に見ゆることは、こと所はえはべらぬものをや」と見たまふるに、この高陽院殿(かやのゐんどの)にこそおされにてはべれ。方四町(ほうしちやう)にて四面に大路(おほぢ)ある京中の家は、冷泉院(れいぜいゐん)のみとこそ思ひさぶらひつれ、世の末(すゑ)になるままに、まさることのみ出でまうで来るなり。この昭宣公(せうせんこう)のおとどは、陽成院(やうぜいゐん)の御舅(をぢ)にて、宇多(うだ)の帝(みかど)の御時に、准三宮(じゆさんぐう)の位(くらゐ)にて年官(ねんくわん)・年爵(ねんしやく)をえたまふ。朱雀院(すざくゐん)・村上の祖父(おほぢ)にておはします。「世覚(おぼ)えやむごとなし」と申せばおろかなりや。御男子(をのこご)四人おはしましき。太郎左大臣時平(ときひら)、二郎左大臣仲平(なかひら)、四郎太政大臣忠平(ただひら)』と言ふに、重木、気色(けしき)ことになりて、まづうしろの人の顔うち見わたして、『それぞ、いはゆる、この翁(おきな)が宝の君貞信公(ていしんこう)におはします』とて、扇(あふぎ)うちつかふ顔もち、ことにをかし。

 世継『三郎にあたりたまひしは、従三位(じゆさんみ)して宮内卿兼平(くないきやうかねひら)の君(きみ)と申してうせたまひにき。さるは、御母、忠良(ただよし)の式部卿(しきぶきやう)の親王の御女(むすめ)にて、いとやむごとなくおはすべかりしかど。この三人の大臣たちを、世の人、「三平」と申しき。

左大臣時平(さだいじんときひら)

[三七]菅原道真と朝政を執る 道真の左遷

 この大臣(おとど)は、基経(もとつね)のおとどの太郎なり。御母、四品弾正尹人康(しほんだんじやうのゐんさねやす)親王の御女なり。醍醐(だいご)の帝の御時、このおとど、左大臣の位(くらゐ)にて年いと若くておはします。菅原(すがはら)のおとど、右大臣の位にておはします。その折、帝御年いと若くおはします。左右の大臣に世の政(まつりごと)を行ふべきよし宣旨(せんじ)下さしめたまへりしに、その折、左大臣、御年二十八九ばかりなり。右大臣の御年五十七八にやおはしましけむ。ともに世の政をせしめたまひしあひだ、右大臣は才(ざえ)世にすぐれめでたくおはしまし、御心(こころ)おきても、ことのほかにかしこくおはします。左大臣は御年も若く、才もことのほかに劣りたまへるにより、右大臣の御おぼえことのほかにおはしましたるに、左大臣やすからず思(おぼ)したるほどに、さるべきにやおはしけむ、右大臣の御ためによからぬこと出できて、昌泰(しやうたい)四年正月二十五日、大宰権師(だざいのごんのそち)になしたてまつりて、流されたまふ。

[三八]配流 自邸での和歌 途次の詩歌

 この大臣(おとど)、子どもあまたおはせしに、女君達は婿(むこ)とり、男君達は、皆ほどほどにつけて位(くらゐ)どもおはせしを、それも皆方々(かたがた)に流されたまひてかなしきに、幼くおはしける男君・女君達慕ひ泣きておはしければ、「小さきはあへなむ」と、おほやけもゆるさせたまひしぞかし。帝(みかど)の御おきて、きはめてあやにくにおはしませば、この御子どもを、同じ方(かた)につかはさざりけり。かたがたにいとかなしく思し召して、御前(おまへ)の梅の花を御覧(ごらん)じて、

 東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな

また、亭子(ていじ)の帝に聞こえさせたまふ、

 流れゆく我は水宵(みくづ)となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ

なきことにより、かく罪せられたまふを、かしこく思し嘆きて、やがて山崎(やまざき)にて出家(すけ)せしめたまひて、都遠くなるままに、あはれに心ぼそく思(おぼ)されて、

 君が住む宿の梢(こずゑ)をゆくゆくとかくるるまでもかへり見しはや

また、播磨国(はりまのくに)におはしましつきて、明石(あかし)の駅(むまや)といふ所に御宿りせしめたまひて、駅の長(をさ)のいみじく思へる気色(けしき)を御覧じて、作らしめたまふ詩、いとかなし。

 駅長(えきちやう)驚クコトナカレ、時ノ変改(へんがい)

 一栄一落(いつえいいつらく)、是(こ)レ春秋(しゆんじう)

[三九]配所における和歌と詩 菅家後集 

 かくて筑紫(つくし)におはしつきて、ものをあはれに心ぼそく思さるる夕(ゆふべ)、をちかたに所々(ところどころ)煙(けぶり)立つを御覧(ごらん)じて、

 夕されば野にも山にも立つ煙なげきよりこそ燃えまさりけれ

また、雲の浮きてただよふを御覧じて、

 山わかれ飛びゆく雲のかへり来るかげ見る時はなほ頼(たの)まれぬ

さりともと、世を思し召されけるなるべし。月のあかき夜(よ)、

 海ならずたたへる水のそこまでにきよき心は月ぞ照らさむ

これいとかしこくあそばしたりかし。げに月日(つきひ)こそは照らしたまはめとこそあはめれ』まことに、おどろおどろしきことはさるものにて、かくやうの歌や詩などをいとなだらかに、ゆゑゆゑしう言ひつづけまねぶに、見聞く人々、目もあやにあさましく、あはれにもまもりゐたり。もののゆゑ知りたる人なども、むげに近く居寄(ゐよ)りて外目(ほかめ)せず、見聞く気色(けしき)どもを見て、いよいよはえてものを繰(く)り出(い)だすやうに言ひつづくるほどぞ、まことに希有(けう)なるや。重木、涙をのごひつつ興(きよう)じゐたり。

 世継『筑紫におはします所の御門(みかど)かためておはします。大弐(だいに)の居所(ゐどころ)は遥かなれども、楼(ろう)の上の瓦(かはら)などの、心にもあらず御覧(ごらん)じやられけるに、またいと近く観音寺(くわんおんじ)といふ寺のありければ、鐘の声を聞こし召して、作らしめたまへる詩ぞかし、

 都府楼(とふろう)ハ纔(わづか)ニ瓦ノ色ヲ看(み)ル

 観音寺ハ只(ただ)鐘ノ声ヲ聴(き)ク

これは、文集(もんじふ)の、白居易(はくきよい)の遺愛寺(ゐあいじ)ノ鐘ハ欹(そばだ)テテ枕ヲ聴キ、香(かう)炉(ろ)峯(ほう)ノ雪ハ撥(かか)ゲテ簾(すだれ)ヲ看ル」といふ詩に、まさざまに作らしめたまへりとこそ、昔の博士ども申しけれ。また、かの筑紫にて、九月九日菊の花を御覧じけるついでに、いまだ京におはしましし時、九月の今宵(こよひ)、内裏(だいり)にて菊の宴ありしに、このおとどの作らせたまひける詩を、帝(みかど)かしこく感じたまひて、御衣(おんぞ)たまはりたまへりしを、筑紫に持(も)て下らしめたまへりければ、御覧ずるに、いとどその折思(おぼ)し召(め)し出(い)でて、作らしめたまひける、

 去年ノ今夜(こよひ)ハ清涼(せいりやう)ニ侍(はべ)リキ

 秋思(しうし)ノ詩篇(しへん)ニ独(ひと)リ腸(はらわた)ヲ断(た)チキ

 恩賜(おんし)ノ御衣(ぎよい)ハ今此(ここ)ニ在(あ)リ

 捧(ささ)ゲ持チテ毎日余香(よかう)ヲ拝シタテマツル

この詩、いとかしこく人々感じ申されき。このことどもただちりぢりなるにもあらず、かの筑紫にて作り集めさせたまへりけるを、書きて一巻とせしめたまひて、後集(こうしふ)と名づけられたり。また折々(をりをり)の歌(うた)書きおかせたまへりけるを、おのづから世に散り聞こえしなり。世継若(わか)うはべりし時、このことのせめてあはれにかなしうはべりしかば、大学(だいがく)の衆(しゆう)どもの、なま不合(ふがふ)にいましかりしを、訪(と)ひたづねかたらひとりて、さるべき餌袋(ゑぶくろ)・破子(わりご)やうのもの調(てう)じて、うち具(ぐ)してまかりつつ、習ひとりてはべりしかど、老(おい)の気(け)のはなはだしきことは、皆こそ、忘れはべりにけれ。これはただ頗(すこぶ)る覚えはべるなり』と言へば、聞く人々、『げにげに、いみじき好き者にもものしたまひけるかな。今の人は、さる心ありなむや』など、感じあへり。

 世継『また、雨の降る日、うちながめたまひて、

 あめのしたかわけるほどのなければやきてし濡衣(ぬれぎぬ)ひるよしもなき

[四〇]北野と安楽寺 内裏火災と道真の怨霊

 やがてかしこにてうせたまへる、夜のうちに、この北野(きたの)にそこらの松を生(お)ほしたまひて、わたり住みたまふをこそは、ただ今の北野宮と申して、現人神(あらひとがみ)におはしますめれば、おほやけも行幸(ぎやうかう)せしめたまふ。いとかしこくあがめたてまつりたまふめり。筑紫のおはしまし所は安楽寺(あんらくじ)と言ひて、おほやけより別当(べたう)・所司(しよし)などなさせたまひて、いとやむごとなし。内裏(だいり)焼けて度々(たびたび)造らせたまふに、円融院(ゑんゆうゐん)の御時のことなり、工(たくみ)ども、裏板(うらいた)どもを、いとうるはしく鉋(かな)かきてまかり出でつt、またの朝(あした)にまゐりて見るに、昨日の裏板にもののすすけて見ゆる所のありければ、梯(はし)に上(のぼ)りて見るに、夜(よ)のうちに、虫の食(は)めるなりけり。その文字は、

 つくるともまたも焼けなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは

とこそありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申すめりしか。かくて、このおとど、筑紫におはしまして、延喜(えんぎ)三年癸亥(みづのとゐ)二月二十五日にうせたまひしぞかし。御年五十九にて。

[四一]時平一族の短命 大将保忠の焼餅 臆病

 さて後(のち)七年ばかりありて、左大臣時平(ときひら)のおとど、延喜九年四月四日うせたまふ。御年三十九。大臣の位(くらゐ)にて十一年ぞおはしける。本院(ほんゐんの)大臣と申す。この時平のおとどの御女(むすめ)の女御(にようご)もうせたまふ。御孫(まご)の春宮(とうぐう)も、一男八条大将保忠(はちでうのだいしやうやすただ)卿もうせたまひにきかし。この大将、八条に住みたまへば、内(うち)にまゐりたまふほどいと遥かなるに、いかが思(おぼ)されけむ、冬は餅(もちひ)のいと大きなるをば一つ、小さきをば二つを焼きて、焼き石のやうに、御身にあてて持ちたまへりけるに、ぬるくなれば、小さきをば一つづつ、大きなるをば中よりわりて、御車副(くるまぞひ)に投げとらせたまひける。あまりなる御用意なりかし。その世にも、耳とどまりて人の思ひければこそ、かく言ひ伝へためれ。この殿(との)ぞかし、病(やまひ)づきて、さまざま祈りしたまひ、薬師経読経(やくしきやうのどきやう)、枕上(まくらがみ)にてせさせたまふに、「所謂宮毘羅大将」(しよゐくびらだいしやう)とうちあげたるを、「我を[くびる]とよむなりけり」と思しけり。臆病(おくびやう)に、やがて絶(た)え入(い)りたまへば、経の文といふ中にも、こはき物(もの)の怪(け)にとりこめられたまへる人に、げにあやしくはうちあげてはべりかし。さるべきとはいひながら、ものは折ふしの言霊(ことだま)もはべることなり。

[四二]敦忠は和歌・管絃の上手 先坊の御息所

 その御弟(おとと)の敦忠(あつただ)の中納言もうせたまひにき。和歌の上手(じやうず)、菅絃(くわんげん)の道にもすぐれたまへりき。世にかくれたまひて後(のち)、御遊びある折、博雅三位(ひろまさのさんみ)の、さはることありてまゐらざる時は、「今日の御遊びとどまりぬ」と、度々(たびたび)召されてまゐるを見て、ふるき人々は、「世の末(すゑ)こそあはれなれ。敦忠中納言のいますかりし折は、かかる道に、この三位、おほやけをはじめたてまつりて、世の大事に思ひはべるべきものとこそ思はざりしか」とぞのたまひける。先坊(せんぼう)に御息所(みやすどころ)まゐりたまふこと、本院(ほんゐん)のおとどの御女(むすめ)具して三四人なり。本院のは、うせたまひにき。中将の御息所と聞こえし、後(のち)は重明(しげあきら)の式部卿(しきぶきやう)親王の北の方にて、斎宮女御(さいぐうのにようご)の御母にて、そもうせたまひにき。いとやさしくおはせし。先坊を恋ひかなしびたてまつりたまひ、大輔(たいふ)なむ、夢に見たてまつりたると聞きて、よみておくりたまへる、

 時の間も慰めつらむ君はさは夢にだに見ぬ我ぞかなしき

御返りごと、大輔、

 恋しさの慰むべくもさらざりき夢のうちにも夢と見しかば

いま一人の御息所は、玄上(はるかみ)の宰相(さいしやう)の女にや。その後朝の使(つかひ)、敦忠(あつただ)中納言、少将にてしたまひける。宮うせたまひて後、この中納言にはあひたまへるを、かぎりなく思ひながら、いかが見たまひけむ、文範(ふみのり)の民部卿(みんぶきやう)の、播磨守(はりまのかみ)にて、殿(との)の家司(けいし)にてさぶらはるるを、「我は命みじかき族(ぞう)なり。かならず死なむず。その後、君は文範にぞあひたまはむ」とのたまひけるを、「あるまじきこと」といらへたまひければ、「天(あま)がけりても見む。よにたがへたまはじ」などのたまひけるが、まことにさていまするぞかし。

[四三]右大臣顕忠の恭謙

 

 ただ、この君たちの御中には、大納言源昇(みなもとののぼる)の卿(きやう)の御女の腹の顕忠(あきただ)のおとどのみぞ、右大臣までなりたまふ。その位(くらゐ)にて六年おはせしかど、少し思(おぼ)すところやありけむ、出でて歩(あり)きたまふにも、家内にも、大臣の作法(さほふ)をふるまひたまはず。御歩きの折は、おぼろけにて御前(ごぜん)つがひたまはず。まれまれも数少なくて、御車のしりにぞさぶらひし。車副(くるまぞひ)四人つがはせたまはざりき。御先(みさき)も時々(ときどき)ほのかにぞまゐりし。盥(たらひ)して御手すますことなかりき。寝殿(しんでん)の日隠(ひがくし)の間(ま)に棚(たな)をして、小桶(こをけ)に小 (こひさご)して置かれたれば、仕丁(じちやう)、つとめてごとに、湯を持(も)てまゐりて入れければ、人してもかけさせたまはず、我(われ)出でたまひて、御手づからぞすましける。御召物(めしもの)は、うるはしく御器(ごき)などにもまゐり据(す)ゑで、

 ただ御土器(かはらけ)にて、台などもなく、折敷(をしき)にとり据ゑつつぞまゐら せける。

倹約(けんやく)したまひしに、さるべきことの折の御座と、御判所(はんしよ)とにぞ、大臣とは見えたまひし。かくもてなしたまひし故(け)にや、このおとどのみぞ、御族(ぞう)の中に、六十余までおはせし。四分一の家にて大饗(だいきやう)したまへる人なり。富小路(とみのこうぢ)の大臣と申す。

[四三-2]時平の子孫ふるわず

 これよりほかの君達、皆三十余、四十に過ぎたまはず。そのゆゑは、他(た)のことにあらず、この北野の御嘆きになむあるべき。顕忠(あきただ)の大臣の御子、重輔(しげすけ)の右衛門佐(うゑもんのすけ)とておはせしが御子なり、今の三井寺(みゐでら)の別当心誉僧都(べたうしんよそうづ)・山階寺(やましなでら)の権別当扶公(ごんのべたうふこう)僧都なり。この君達こそはものしたまふめれ。敦忠(あつただ)中納言の御子あまたおはしける中に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)なにがし君(ぎみ)とかや申(ま)しし、その君出家(すけ)して往生(わうじやう)したまひにき。その仏(ほとけ)の御子なり、石蔵(いはくら)の文慶(もんけい)僧都は。敦忠の御女子は枇杷(びはの)大納言の北の方にておはしきかし。あさましき悪事(あくじ)を申し行ひたまへりし罪により、このおとどの御末(すゑ)はおはせぬなり。さるは、大和魂(やまとだましひ)などは、いみじくおはしましたるものを。

[四四]時平・過差を止める

 延喜(えんぎ)の、世間の作法(さほふ)したためさせたまひしかど、過差(くわさ)をばえしづめさせたまはざりしに、この殿(との)、制(せい)を破りたる御装束(さうぞく)の、ことのほかにめでたきをして、内(うち)にまゐりたまひて、殿上(てんじやう)にさぶらはせたまふを、帝(みかど)、小蔀(こじとみ)より御覧(ごらん)じて、御気色(けしき)いとあしくならせたまひて、職事(しきじ)を召して、「世間の過差の制きびしき頃、左(ひだり)のおとどの一(いち)の人(ひと)といひながら、美麗(びれい)ことのほかにてまゐれる、便(びん)なきことなり。はやくまかり出(い)づべきよし仰せよ」と仰せられければ、うけたまはる職事は、「いかなることにか」と怖(おそ)れ思ひけれど、まゐりて、わななくわななく、「しかじか」と申しければ、いみじくおどろき、かしこまりうけたまはりて、御随身(みずいじん)の御先(みさき)まゐるも制したまひて、急ぎまかり出でたまへば、御前(ごぜん)どもあやしと思ひけり。さて本院の御門一月(みかどひとつき)ばかり鎖(さ)させて、御簾(みす)の外(と)にも出でたまはず、人などのまゐるにも、「勘当(かんだう)の重ければ」とて、会はせたまはざりしにこそ、世の過差はたひらぎたりしか。内々によくうけたまはりしかば、さてばかりぞしづまらむとて、帝と御心あはせさせたまへりけるとぞ。

[四五]時平の笑癖

 もののをかしさをぞえ念ぜさせたまはざりける。笑ひたたせたまひぬれば、頗(すこぶ)ることも乱れけるとか。北野と世をまつりごたせたまふあひだ、非道(ひだう)なることを仰せられければ、さすがにやむごとなくて、せちにしたまふことをいかがはと思(おぼ)して、「このおとどのしたまふことなれば、不便(ふびん)なりと見れど、いかがすべからむ」と嘆きたまひけるを、なにがしの史(し)が、「ことにもはべらず。おのれ、かまへてかの御ことをとどめはべらむ」と申しければ、「いとあるまじきこと。いかにして」などのたまはせけるを、「ただ御覧ぜよ」とて、座につきて、こときびしく定めののしりたまふに、この史、文刺(ふんさし)に文挟(ふみはさ)みて、いらなくふるまひて、このおとどに奉るとて、いと高やかに鳴らしてはべりけるに、おとど文もえとらず、手わななきて、やがて笑ひて、「今日は術(ずち)なし。右(みぎ)のおとどにまかせ申す」とだに言ひやりたまはざりければ、それにこそ菅原(すがはら)のおとど、御心のままにまつりごちたまひけれ。

[四六]道真、雷神となる 王威と理非

 また、北野の、神にならせたまひて、いとおそろしく雷(かみ)鳴りひらめき、清涼殿(せいりやうでん)に落ちかかりぬと見えけるが、本院(ほんゐん)の大臣(おとど)、太刀(たち)を抜きさけて、「生きてもわが次にこそものしたまひしか。今日、神となりたまへりとも、この世には、我に所置きたまふべし。いかでかさらではあるべきぞ」とにらみやりてのたまひける。一度はしづまらせたまへりとぞ、世(よ)の人(ひと)、申しはべりし。されど、されは、かの大臣(おとど)のいみじうおはするにはあらず、王威(わうゐ)のかぎりなくおはしますによりて、理非(りひ)を示させたまへるなり。

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